現代演劇暴論:あゆみ編

現代演劇暴論14「『あゆみ』はいかにして作られるのか14」

m-floのlovesシリーズ最終曲PVのミシェルゴンドリーフォロワーっぷりがすごい。で歩き続けてる。
くるでしょーあゆみブーム、とユースケサンタマリアも言ってました。
最後のLISAがなんか泣けた。久々に聞いてみっかエムフロ。

というわけで「あゆみ」は6月にまったく新しい物語の長編として生まれ変わります。
だからこのシリーズはちょっと休んでまた5月頭ぐらいから続くと思います。
そして明後日から新シリーズ「現代口語ミュージカル『御前会議』はいかにして作られるか」が始まる予定でーす。

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現代演劇暴論14「『あゆみ』はいかにして作られるのか13」

解説はお休み。
前にここで紹介したChemical Brothersの「Star Guitar」のメイキングと言われてる映像。
この手はおそらくミシェルゴンドリー。

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現代演劇暴論14「『あゆみ』はいかにして作られるのか12」

長回しの美学の延長。
つまり長回しには膨大な段取りがついて回る。もちろん練習が必要だし、ミスればはじめからだ。
この緊張感にみんな心ひかれるのでは。
この2つとも裏ではスゲーどたどた動いてるだろうし、カメラマンはコースを絶対にはずれらんないし。
歌とメンバーが合うように構成して、動線を作って、見切れないようにして、照明も明るすぎず暗すぎず気を使って。
それが完成したときには流れるような美しさがある。
美しさのためにみな努力するのだ。
RIP SLYME「黄昏サラウンド」



RIP SLYME「熱帯夜」



特に熱帯夜は場所は狭そうだし、人は多いし、小道具あるし、エロいし、大変だっただろう。

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現代演劇暴論14「『あゆみ』はいかにして作られるのか11」

タイムラインという言葉がある。「ライン=線」とは点と点の距離である。
つまり時間は距離によって表すことができる。
時計は針が進んだ距離で見えない時間を示している。
一定の速度で進む物体の時間は進んだ距離でわかる。昔習ったおはじきだ。
あゆみは舞台上を歩き続ける。
その方向を制御する。ある一定のルールで規定する。
すると舞台上に正の方向というものが自然に生まれる。反対側はもちろん負の方向だ。
さらには、その方向を歩き続ければ現在、走れば未来、戻れば過去というルールが自ずと出来上がる。
この効果を利用すれば物語の時間軸を操ることができる。
しかもタイムトラベル的なワープの感覚ではなく、タイムライン=道を行き戻りする感覚である。
この方法が与える印象は、多くのタイムトラベルが与えるパラレルワールド的な印象とは違うものだ。
過去も未来もそれほど遠い印象ではない。
それはかつて通った道であるし、これから通る道でしかないのだ。
参考資料、ケツメイシ「トレイン」。

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現代演劇暴論14「『あゆみ』はいかにして作られるのか10」

ミクロからマクロへ。
というのはno art no lifeの温水洋一の台詞だけど「歩く」という行為はまさにそれだ。
去年、反復かつ連続のあらすじを書くときに人が一生に歩く距離を調べたのだけど、その長大さに驚いた。
歩くというパーソナルな行為が、結果地球レベルの距離に到達するというマジックである。
でもやっぱり多くの人間は生まれ育った場所からあまり移動しない。
長大な距離を進んでいるはずなのに、どこからも移動していない。
その矛盾にどんな感想を抱くかは人それぞれだろう。
資料映像は雪が降った記念。
以前にも紹介したHALFBYシリーズの別作品。ミクロからマクロへそしてまたミクロへ。
HALFBY「STAR TRACK」

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現代演劇暴論14「『あゆみ』はいかにして作られるのか9」

アイデア一点突破型創作方法について。
なぜ、あるアイデアを突き詰めて作品を作ろうとしているのか考える。
例えば「歩く」という方法をもっと大きな物語の最も効果的な場所で使えば良いのではないか。
ひとつにそこに美学を感じるから。潔さとも言える。
この方法で作られた作品は大抵、非常にシンプルに出来上がる。
しかしその裏にはシンプルであるが故にどこからも崩せない複雑で堅牢な構造がある。
そこにしびれるあごがれるのだ。
またふたつ目にストーリーではなくプロットに興味があるからだ。
ここで言う「プロット」とは物語が持つ構造、図形、模様、のようなものを指す。
井上ひさしが言うところの知恵ある仕掛け。
ストーリーが表面化して展開するものならプロットは潜在的に点と線を紡ぐ。そして何かを形作る。
以前は否定的だった「ストーリー飽和論」に現在はやや賛成だ。
もうパターンは出尽くしたのかも知れない。
しかし悲観はしない。むしろ優れたストーリーを上手く使えばいい。
そのかわり、新しいプロットの発明こそが劇作家にとって必要だと思う。
プロットをどうやって考えるかは人それぞれだろう。
いきなり完成図が浮かぶかもしれないし、稽古場で偶然出来上がるかも知れない。
見たことのないストーリーを作ろうという努力が結果、新しいプロットを発明することもある。
そこで自分の場合はあるアイデア・不確定な図形をとことん突き詰めてみる、である。
ストーリーは放棄する。というよりかは常にプロットに先行させる。
本来、ストーリーの後を静かに追いかけるプロットに物語を紡がせる。
そこから今までになかった物語を立ち上げようというたくらみである。
だからよりシンプルなアイデアをどこまで突き詰めるか、という考え方で今は創作している。
しかし、この方法もそう長くは続かないだろう。
アイデアとやらが浮かばなくなったらおしまいかもしれない。
それに、これにはもしかしたら演出家の仕事が混じっているかもしれない。
劇作家は使い捨てではなく、発明したプロットを長年かけて洗練させるべきかもしれない。
一人の作家が発明できる新しいプロットなど10にも満たないと思う。
あとはその得意技、自分の世界をどう組み立てるか、どう見せるかの積み重ねのような気もする。
基本が同じプロットだとしても、その組み立て方でまったく異なる物語は出来上がる。
とまあ考えるときりがないので今日はここら辺で。
参考作品は監督はSDP自身ともタケイグッドマンとも言われてるPV。
スチャダラパー「Let It Flow Again feat.ロボ宙」。
アイデア一点突破。低コスト。誰もいないのに誰かいる、歩いてないのに歩いてる、そんな錯視。
カメラと車とプロジェクターが一台ずつあれば作れる、のになんて良いのだろう。

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現代演劇暴論14「『あゆみ』はいかにして作られるのか8」

錯視と、複数人一役について。
以前にも書いたが今、舞台上の錯視・錯聴に興味がある。
見えないものが見え、聞こえないものが聞こえる。観客全員をそんな状況にしたいのである。
その一つで注目しているのが複数人一役。要するに、二人一役とかいうやつである。
自分がこの方法に魅力を感じているのは自分の中にある仮説があるからだ。
それは、この方法によって「ノンフィクション(俳優、の肉体、の声、自身)に依存せずにフィクション(作中人物)を立ち上げることができるのではないか」という仮説である。
かつての演技は「俳優(100%)=登場人物(100%)」、つまり「なりきること」を目指した。
それに異を唱えた現代口語演劇の演技スタイルは「俳優(X%)+登場人物(Y%)=100%」だと思う。
つまりその俳優自身の存在をある程度認めた上で現実を削りつつ虚構を足していく、そんな作業だ。
優等生的目標値は「俳優(50%)+登場人物(50%)=100%」じゃないだろうか。
それ以上に俳優が見えると「素」、それ以上に演技が見えると「過剰」、にうつる。
ではここに複数人一役をぶち込んでみる。するとこんな計算ができる。
「俳優(80%)+登場人物(20%)=100%」×5人→登場人物(100%)
もちろんおしりには「+俳優(400%)」がくっつくわけだが。
しかし5人で演じることによってアベレージ20%という非常に弱いレベルで100%のキャラクターを創造することができるのだ。理屈では。
「ゴーストユース」の概要を聞いて、思ったことはこれだ。つまり学生20人主婦一役でこーゆーことができたのではないだろうか。
どの役者にも定着しない、透明な幽霊みたいな、しかし確実に存在する、フィクションが立ち上がりつつあったのではないだろうか。
もしそれができたら、そんなことが可能だったら、想像しただけでゾクゾクする。
そんなことを考えつつ参考資料。野田凪監督/YUKI「センチメンタルジャーニー」
複数人一役。長回し。錯視によるストップモーション歩行。めじろおし。

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現代演劇暴論14「『あゆみ』はいかにして作られるのか7」

解説は休み。参考作品のみ。
pizzicato five「陽の当たる大通り」。


自分が持っている歩行の悲しくも陽気な原風景はこれか。

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現代演劇暴論14「『あゆみ』はいかにして作られるのか6」

映像の世界には長回しの美学みたいなものがあって同じおもしろさなら長回しの方がエライことになっている。
なっていない。デタラメだ。
でも映像でカットを割らずに作品を作ろうとしたらやっぱりそれは大変なのだ。単純に。
なので優れた長回しは感心と感動の両方を観客に与える。
さらにCGの発達がこの長回しの美学に変化をもたらした。
今までの長回しではなんとなくその努力の幅が知れたわけだが、巧妙に仕組まれたCG長回しはもはやどうやって作ったのかわからない作品になる。感心と感動と不思議を観客に与えるようになったのである。
だからCG万歳ちょろいもんだよね、とはいかない。実は、巧妙なCGは突出したアイデアと通常の長回し以上の労力が必要なのである。
バレバレのCGではあーコンピューターでちょちょって作ったんでしょ、と思われてしまう。
そう思われないように配慮しつつ、摩訶不思議な映像を作らねばならない。これが難関なのである。
その天才がミシェルゴンドリーだ。
前出の参考作品を見てもらえればわかっていただけると思う。
では日本でこれに成功した作品を紹介したい。
ミシェルゴンドリーほどの超絶技巧ではないが楽曲とのマッチもあって優れた作品であると思う。
当然、歩き続けている作品だ。
信藤三雄/Mr.Children「NOT FOUND」

今HP見たらホワイトバンドのアートディレクションってCTPPだったんだ。おーい。
そりゃみんな騙されるわけだ。確かにあのビジュアルには力はあった。

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現代演劇暴論14「『あゆみ』はいかにして作られるのか5」

PVに歩きながら歌う映像が多いのはBPMに関係がある。
歩行に音楽のテンポを合わせればそれだけで楽曲とマッチした映像が出来上がるのだ。
その映像はダンスほど強い主張を持たずに潜在的に我々の音感を刺激することができる。
つまりダンスが「特権的肉体PV」であるとすれば、歩行は「現代肉体PV」なのである。
何を言ってるのか自分でもさっぱりである。
まぁ、決して真似できないダンスに魅了されることもあれば、誰でもできる歩行に手触りを感じることもあるということだ。
参考作品にYUKIの長い夢をリンクしようとしたのだけど思いっきりyoutubeから消されていた。
長い夢だけ。なんで。
というわけで、変更してHALFBY&groovisionsの一連のPVを一挙に紹介したい。
やけくそである。
音に合わせて動きたいという潜在的な欲求がくすぐられる感覚を感じていただけると思う。

groovisionsは音に合わせて歩く(移動する)というモチーフだけでこれだけのPVを作ってみせた。
架空の街、箱庭的おもしろさ、絵柄のポップさ、おもしろいキャラクターなど他の魅力的要素もあるが、
「歩く」という原点がなければこれだけの量産はできなかったはずである。

追記。
5個も動画にリンク張ったらくそ重くなってしまったのでとりあえず消しました。
上の動画から他のHALFBY&groovisions動画も見られます。

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