現代演劇暴論:その他

現代演劇暴論13「舞台上で叫ぶということ2」

で、田上パルである。見たのは「アルカトラズ合宿」。傑作だった。叫んでいた。
おもしろいのは田上パルの芝居は叫ぶ芝居であるのに現代口語演劇だという点。
それが現代口語演劇でも、叫びうる場所で叫びうる人々が叫びうる状況に至れば叫ぶのだ。
場所は、東京と九州の高校ハンドボール部の合宿所。
人々は、運動部の高校生、カンニング疑惑の高校生、運動部の顧問教師。
状況は、練習試合後の夜に行われる恒例のバカ勝負(罰ゲーム有)。
さらにここに熊本弁が加わる。
叫ばないわけがない。舞台上の彼らは心おきなく叫び。
私はそれにみじんの恥ずかしさも感じなかった。

「アルカトラズ合宿」を見て思ったのは、以前に自分がやりたかった芝居の形がより上手く美しく面白く作られている、ということだ。
それは、青春群像劇で、若くて、バカバカしくて、ナンセンスな要素もあり、
青春の苦さもあって、無価値で、非建設的で、戯曲上の伏線的なおもしろさもあるが、
何の哲学的・文学的・感情的な押しつけもしない。そんな芝居だ。
自分がかつてやりたかった、やってみた、あの芝居の、自分にはまるで書けなかった、到達点をこの作品に見たような気がした。

田上豊氏の戯曲は美しい。アフタートークでは、どうしたらもっと上手い戯曲が書けるのか教えてもらおう…。

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現代演劇暴論12「舞台上で叫ぶということ」

最後の稽古オフを使って柿喰う客「傷は浅いぞ」を見に行った。
柿喰う客はその噂と元バームクーヘンの扇田氏が数度客演していることもあり見たいと思っていて今回が初見。
というのは嘘でmrs.fictionsの第二回公演の記録用(?)DVDにて短編作品は見ていた。
その作風に懐かしさと新しさと悔しさを感じた。80年代風の叫んで走って無駄に動く芝居と言えなくもないがやはりそれらとは確実に違う。
私はついこの前まで舞台上で叫ぶということに対して絶望的な気持ちになっていた。舞台上で叫ばれると一気に引いてしまうのだ。
しかし、自分で芝居を演出するとどうしても必要以上の声量を求める自分がいることに戸惑うこともあった。
一昔前の小劇場演劇では「テーマ」「哲学的な台詞」「感情的な台詞」「道徳的な台詞」「難解な台詞」「悲鳴」「雄叫び」が主に叫ばれていたように思う。しかし、私達は、少なくとも私は上記の様な内容を舞台上で叫ぶ演出を生理的に受け付けることができない。そのような感覚が多くの会話劇、口語劇を作ってきた。その結果、多くの芝居は静かになっていった。だがやはり、私達は知っているのである。大声を出す人間の面白さを。
舞台上で叫ぶことは恥ずかしい、しかし、舞台上で叫ぶことは面白いのである。
では問題は「何を叫ぶか」だと気づいたのはここ最近である。
「柿喰う客」は新しい叫びの方法を教えてくれた。
それはテキストのユニークさ、である。もしくは意味からの解放。ほぼ全編に台詞の意味を相殺するほどの無意味な擬音や、ギャグや、オマージュなどが一つの徹底したセンスによって編み込まれている。もしくはもうナンセンスそのものの場合もある。
注目すべきはその台詞の無意味さが「全編」に及ぶことだ。前半は無意味な叫びで楽しめたのに後半にやけに直接的な台詞になる芝居は多々ある。
無意味な部分が60%、70%、80%、と比率が上がることもある。しかしやはり最後は物語にとって重要な「テーマ」に近い雄叫びをあげる。
しかし、柿喰う客はそうではなかった。全編だった。全編そうだった。
いやむしろ後半に行けば行くほどその「無意味」さは増幅していった。
舞台上にはところ狭しと走り回り、大声で叫ぶ4人の若者がいた。
彼らを見て私は一人勝手な絶望に陥っていたことを恥じた。ここにもまた演劇と戦っている人間がいた。私よりももっと堂々とした戦い方で。

「14.√1.90」のアフタートークのゲストが決定しました。
前にも書いた通り、11/28は田上豊氏(田上パル)、11/29は篠田千明氏(小指値)。
そして未定だった11/27のゲストは柿喰う客の作・演出家 中屋敷法人氏です。

次は、また別の方法で舞台上での叫けびを教えてくれた、また自分がやりたいとい思っていたことをほぼすべてやられてしまったと思った田上パルとその作・演出家 田上豊氏について書きたいと思います。

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現代演劇暴論11「続・らき☆すたOPに見る演劇的論点」

2.萌えは新しい劇言語を創造できるのか

次は言葉の面かららき☆すたOPを考察してみたい。

参考資料。
「もってけ!セーラーふく」作詞 畑亜貴

曖昧3センチ そりゃぷにってコトかい? ちょっ!
らっぴんぐが制服…だぁぁ不利ってこたない ぷ。
がんばっちゃ●やっちゃっちゃ
そんときゃーっち&Release ギョッ
汗(Fuu)々(Fuu)の谷間に Darlin' darlin' F R E E Z E!!

なんかダるー なんかデるー
あいしテる あれ一個が違ってるんるー
なやみン坊ー 高鉄棒ー
おいしん簿一 いーかげんにシナサイ

飛んでったアイツの火照るカラダって
所謂ふつーのおにゃのコ
驚いたあたしだけ? 豚骨ハリガネおかわりだだだ

BON-BON おーえん団
Let's get! チェリーパイ
RAN-RAN かんげー会
Look up! せんせーしょん
はい! 存在感…小惑星
ぶつかって溶けましたぼーぜん
大いに歌ってシレンジャー

もっていけ!
最後に笑っちゃうのはあたしのはず
セーラーふくだからです←結論
月曜日なのに!
機嫌悪いのどうするよ?
夏服がいいのです←キャ?ワ!イイv

接近3ピクト するまでってちゅーちょだ やん☆
がんばって はりきって My Darlin' darlin' P L E A S E!!

おもしろい日本語をいつも探している。
HIP HOPをたしなむようになったのもひとつにその理由がある。
一時期のハロプロやマキシマムザホルモンをも同様の理由で聞いた。
この「もってけ!セーラーふく」の歌詞にもある種の魅力を感じる。
現代歌詞の解体と再構築がここにはある。

劇作家にとって独自の劇言語を発明できるかどうかは死活問題だ。
独自の劇言語で今まで描けなかった言語景色を提示する。
劇作家が既存の戯曲に対抗するためにはその方法しかないと思っている。

日本語の特徴を語るときに平田オリザ氏やいとうせいこう氏が好んで使う例に「俳句」がある。
柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺
「柿」と「鐘」と「法隆寺」にはなんの論理的つながりはない。
しかし、この三つを並べることである風景が表出される。
論理ではなく、感覚によって文脈が成立する。
これが日本語のおもしろさの一つ、というような話だ。
「もってけ!セーラーふく」はまさにそうではないだろうか。

普通、日本語で何かを語るときには「日本語として意味を通すべき」という無意識のルールが働く。
しかし「萌え」という新しいルールを設定することによって意味の重力から離れることができる。
論理を越えた言語表現が「萌え」によって生まれるメカニズムはここにある。
萌えによる既存の日本語の破壊はこれが初めてではない。
その系譜には電波ソングと呼ばれるものやUNDER17などがある。

萌えを既存の劇言語にぶつけることで新しい戯曲、演劇作品が生まれるのではないか。
M.O.E.projectの佐古田君に個人的に期待するのはこの点である。
まぁ本人はまったくそんなつもりじゃないと思うけど。

で、前回フレーム数がどーこー言ってるくせに参考資料がYouTubeなのはいかがなものか。
というわけでstage6の「もってけ!セーラーふく」です。
綺麗です。これを見れば、前回私が何を言いたかったのかわかるかもしれません。
でも重いです。DIVXのプラグインをダウンロードしないと見られません。
それでも見たいというもの好きな人だけどうぞ。

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現代演劇暴論10「らき☆すたOPに見る演劇的論点」

参考資料。
らき☆すたOP「 もってけ!セーラーふく」

「らき☆すた」のOPを見て少し思うところがあった。のでちょっと演劇的に分析してみる。

1.京都アニメーションが提示する身体性

ここ最近、宮沢章夫氏が自著やブログで「身体性」について語っているのをよく見る。
それはだいたいチェルフィッチュやポツドールの身体についてで「だらしなさ」もしくは「だらしなさの先」の身体性について色々書かれている。
現代口語演劇はまず言葉の面から現代演劇へとアプローチした。
もちろん身体からのアプローチもあったけど言語ほどではなかったと思う。
そして現代口語演劇は一応の完成をみた(あくまで一応)。
今、現代演劇は身体の現代性について模索している。現代身体演劇の時代である。
というわけで演劇界では新しい身体表現を持った作品が多く発表されている。
先に挙げたチェルフィッチュはそうだし、東京デスロックの「再生」なんかもそうだと思う。
あとすぐ地べたに寝そべる五反田団。
それら新しい身体表現のキーワードはやはり肉体の「だらしなさ」だと思う。
そもそも演劇の身体はきれいすぎたし、タフすぎたし、力が入りすぎてきた。
で、話はやっと「らき☆すた」に入る。

京都アニメーションがアニメキャラ達に踊らせたのは涼宮ハルヒが最初だろうか。
それは大変に評判になって巷で実際に踊っている人々の映像がYouTubeにアップされた。
今回の「らき☆すた」も同様で多くの素人ダンサーの映像が見られる。
で、そーゆーのを見ると非常にがっかりする。
なにしろ動きのキレが違いすぎる。バラバラだわ、トロいわ。
このダメさを受け入れようとしているのが現代の身体性だとも言える。
でもこれは素人とか練習不足だけが原因とは言い切れないと思う。

まず参考資料を見て欲しい。
ダウンロードしながら見ると頭のフレームが少し遅れる。
ので完全にダウンロードしてから見ることをお勧めする。
問題は頭の10秒にある。4人が並んでダンスする一連のカットである。(特に最初の青い髪のキャラが回す手首)
たぶんこれらのカットは通常のアニメよりもフレーム数が多いと思う。
テレビは1秒間30フレーム。アニメはその4分の1とかだったりした気がする。
つまり1秒間で約12枚ほどのパラパラ漫画が動いている。
枚数を増やして描けばパラパラ漫画の動きはより滑らかになる。
京都アニメーションがブランド化したひとつの理由にその書き込みの多さがある。
で、このフレーム数を多くする技術はPVにもよく使われる。
スローモーションで撮影したダンスを通常速度で見せると異常に動きが機敏な人々の映像になる。
でもこちとらアニメである。例えば制服のたるみや髪の毛の揺れまで完全にコントロールできる。

ではこの「身体」を現実で表現することは不可能なのだろうか。
ストリートダンスの世界ではもうその試みはある。
「アニメーション」と呼ばれるジャンルがそうだ。
まさにこーいったアニメ的な動きを生身で再現しようとしている。
しかもアニメはこんなに動きながらズレや歪みやだらしなさの、演劇界流行の「ノイズ」まで各所で再現している。
だから演劇も見習ってこーゆー風に動けと言ってるわけではない。別に。
ただこの身体性を分析することで何かのヒントになるのではないかと考えている。
小指値はこのアニメ的な身体性を含んでいる気がする。
だからなんだか動きが気になって目が離せないのではないだろうか。
で、こーゆーことを考えすぎてるといつかくるくるぱーになると思う。
らき☆すたにHIP HOPに現代口語演劇に新本格ってトピックが飛びすぎて誰も理解できねーよである。
この節操のない評論方法はあきらかにマンガっちの影響だ。
あれを読んで自分にもある種の演劇論作業ができるかもしれないと思って今やっている。
意外に長くなったので、

2.萌えは新しい劇言語を創造できるのか

は、次にします。
ちなみにらき☆すた本編は一切見てないので内容はまったく知らない。

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現代演劇暴論8「演劇様式のガジェット化」

完全に脱線します。
次にやろうと思っていた「現代演劇と現代本格ミステリ」を少し前倒しでやります。
というのもハイバイを観劇して思うところがあったため。メモ書き程度に。
演劇様式とミステリ様式のガジェット化について。
本格ミステリの様式として「館」や「密室」や「首無し死体」なんかがあったわけです。
しかしながら現代日本にそうそう「館」が建っているわけもなくこれはちょっと非現実的じゃないかと。
そんなこんなで松本清張の「社会派」の隆盛です。
その後、新本格と呼ばれる世代が「いややっぱり館も名探偵も密室も大事だよ」と言いだします。
新本格は様式の復権と同時にトリック至上主義でもありました。
だからあくまで彼らが言う「館」は本格ミステリの内部の仕掛け、様式、トリックの一部として存在していました。
が、メフィスト後期、というかファウスト、そもそもは麻耶雄嵩が発端の、更なる新世代が出てきます。
彼らは「ミステリのためのミステリ」という本格の大前提を意識的に無視しました。
つまり「本格ミステリ」の箱を使って中身は「別の何か」を書き始めたのです。
いわゆる「脱格ミステリ」。
彼らは「館」だけでなく「ミステリ」までもガジェットとして扱います。
そうなってくると「館」は一種の記号です。
その辺りがよくわかるのが清涼院流水「コズミック」と舞城王太郎「九十九十九」。
館のための館、密室のための密室、首切りのための首切り。
意味も動機もトリックからも解放された「本格の様式」が一体何を表現するのか。
空洞化した様式で何を表現することができるのか。
その扱い方は今までの本格ファンを激怒させるものかもしれません。
しかしそれはやはり一つの挑戦だと思えるのです。

というようなことを考えたキッカケは野鳩を見たときでした。
ほほをふくらませてむくれる「学芸会的演技」、
草を「お弁当の中にある緑の奴のデカイ版」で表現するあの感覚。
演劇様式をガジェット化して新しい何かを作ろうとしていると感じました。
またハイバイの「しわ」。
ぶっちゃけ「しわ」が出てくるハイバイの芝居は見れてません。
が、写真とかチラシで見たので色々考えてみました。
つまりかつて若者が老人を演じる時に無自覚に書いていた「しわ」。
意識的になった現代演劇人は「老人に老人を演じさせる」とか「見た目はいじらず老人に見せる」とか
「老人の出てこない話にする」という至極、真っ当な方法でその様式を捨てたわけです。
だってよくよく考えると「顔にペンで書いたしわがあるって変」だからです。
それがかつての「館」にダブるのです。
日本に西洋館がボコボコあるのって変、と根本は一緒です。
ハイバイのあの執拗な「しわ」の写真を見ると、
名探偵が腐るほどでてきてなおかつ全員にそれぞれ特殊推理を持たせた「JDC」や、
何百人もの連続殺人事件が起こる増築に増築を重ね超巨大化した「蒼鴉城」を思い出すのです。
1200人の密室首切り殺人を通して「密室」、「首切り」そのものの意味を考える。
顔中にしわを書いて若者が老人を演じることで、「演技」や「しわ」について考える。
「密室」=「しわ」の先に何があるのかを探る。
というわけで世界は違えどやってることは一緒なのかなと思ったりしてるわけです。

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