現代演劇暴論:HIP HOP/RAP編

現代演劇暴論15「現代口語ミュージカルはいかに作られるか4」

今、一度「ラップ用に書かれていない言葉をラップする」という事について考えてみよう。
いきなり結論を書いてしまうと、WSを通じて私はラップとは言葉をビートに合わせて分解することだと気がついたのである。
そうするとなぜみんなYO YO言ってるのかの謎が解ける。「よう」という2文字の音で4分音符をとっていたのだあれは。
そこまでわかればあとは難しく考える必要はない。文字数とビートのつじつまを合わせるだけでいい。
音感の優れたものならばある程度は即興でできる。
またも公序良俗に反する動画。
ネタの馬鹿馬鹿しさについ笑ってしまった後にすぐビート復帰するところにMJ SHINEのスキルの高さをかいま見る。
MJ SHINE a.k.a. みうらじゅんfeat. K DUB SHIN「下ネタRhyme! MJ SHINE」

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現代演劇暴論15「現代口語ミュージカルはいかに作られるか3」

今、私達がやっているのは「ラップ用に書かれていない言葉をラップする」という無謀な作業である。
そんなことがそもそも可能なのかどうか。そこから私達は挑戦したわけで。
しかし、私にはある程度の勝算があった。
この映像をかつて見たことがあったからだ。
ここに来て参考資料がまさかの佐伯誠之助である。
しかし、彼がいなければ今回の「御前会議」への挑戦はなかったと思う。
この映像には公序良俗に反する内容が含まれています。
お好きな方にはたまらないかと。自己責任でどうぞ。


もともとはセリフのサンプリング化に興味があって、というか単純にファンで追いかけてたんだけど。 この後半の官能小説ラップにやられちゃったわけである。

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現代演劇暴論15「現代口語ミュージカルはいかに作られるか2」

ラップで会話は可能か?可能だ。
なぜか。メロディが必要ではないからだ。
メロディが必要でないとなぜ会話ができるのか。それはまあ考えてみてください。
というわけでメロディがないと、ひとつの楽曲に複数の価値観が混在できる。
つまり会話どころか対話まで可能なのだ。
スチャダラパー「スチャダランゲージ [LIVE]」

出演者の工藤さんに指摘されてビビったのだけど前に出したSDPジャケと御前会議チラシが構図似てる。 なんというシンクロニシティ。
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と思ってたら宇多丸のラジオにゲストでSPD。
あとサイプレス上野の連載がちょうどSDP。
さんぴん、LBが断絶してた(ように見えた)なんて昔の話。
サ上みたいな両方の血を受け継いだ新種まで出てきて。
今、本当にHIP HOPの時代は豊かになったわけで。 だから「冬の時代って言うけどあの時みたいな熱い爆発しそうな何かがある」っていうMUMMY-Dのコメントは信憑性があって。 じゃあ演劇はどうなんだって考える。

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現代演劇暴論15「現代口語ミュージカルはいかに作られるか1」

例によって完全ネタバレというかネタ作り同時進行の演劇暴論をはじめます。
以下のことは前にどこかで書きましたが今一度。
まずは「現代口語ラップ」というものを皆さんに紹介します。
「現代口語ラップ」とは日常で話している言葉を使ってするラップ、です。
HIP HOP、ラップは外国発祥の文化です。
ゆえにその伝承には翻訳が発生し、結果「口語」から「文語」への変換作業が自動的にされてしまったわけです。
この流れはかつての近代演劇の流れと同じで。
その後、各アーティスト達の努力の結果、日本化とか現代化とか口語化とかされて表現が広がっていきました、とさ。
というわけで現代口語演劇が存在するように現代口語ラップも存在するわけです。
で、今日の参考資料。関西弁による現代口語ラップ。
Laugh & Peace featuring Yoko Fujita 「 ちょっときいてな」

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現代演劇暴論9「RIP SLYME=三谷幸喜」

巧みなバランス感覚と高度なテクニックで最も大衆に支持された後期FGとウェルメイドについて。
FGクルーとはRhymester、EAST END、Mellow Yellowらが立ち上げたヒップホップクルーです。
後期FGとはKreva、MCU、Little(Kick the can crew)、RIP SLYMEを指します。
セールスのみで見ればヒップホップ勢の中で最も成功しているクルーです。
なおかつ、ここが一番重要ですが、リアル、ハーコー志向のヒップホップ勢にもその実力を認められている。
大衆に売れるとすぐにセルアウトの烙印を押されてしまうヒップホップ界で、ある種の奇跡的存在とも言えます。
彼らの特徴を一言で言えば「洗練」です。

LBほど現代口語ではありません。普段の言葉使いからはやはり少し離れています。
ZEEBRA達ほどハーコー志向でもありません。もう少し口語に近く、なじみのある言葉を使っています。
LBほどだらしなくはなく、ハーコーほど気取らない「洗練」された歌詞とトラック。
それが後期FGクルーです。

参考資料。
RIP SLYME「I・N・G」

KREVA「音色」

RIP SLYMEの方が洗練度が上で、KICK勢のほうが歌謡曲度が高いですね。
ちなみにRIP SLYMEはSDPとも競演しています。
最高レベルの「洗練」は現代口語と見分けがつかなくなるのです。
後期FGではありませんがこの流れにHOME MADE家族なんかがいたりします。より歌謡曲度が高まってますが。

で、これを現代演劇で考えるとウェルメイドの流れに当てはまるわけです。
ウェルメイドとは具体的に言うと、三谷幸喜、永井愛、土田英夫、マキノノゾミ等です、
最近だと赤堀雅秋、青木豪、蓬莱竜太なんかがいます。
つまり近代演劇を極限まで「洗練」させることで現代にも通用する演劇を創造した人達です。
「洗練」がミソです。完全に現代の感覚で「創造」すると現代口語演劇になってしまいますから。
あくまで近代演劇=翻訳劇のセリフやプロットが根底に生きているわけです。
そんなこと言わね、そんな言い方しね、そんなこと思わね(しない)を洗練されたセリフ、プロット、
展開、キャラクター作りで感じさせないようにする。それがウェルメイドです。
その美しさに、冷静に考えれば変なことも(大声を出す、デカイ身振り)も気にならなくなる。
またこっちも「洗練」の度合いが最高レベルに達すると現代口語とほぼ見分けがつかなくなります。

ジャパニーズヒップホップと現代演劇を広く一般に波及させたのは彼らです。
その功績の価値ははかり知れません。

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現代演劇暴論7「小休止」

よくよく考えたらLBって青年団リンクとか団合併してた「五反田団」とか「地点」だ。
かせきさいだぁ=前田司郎?

かせきさいだぁ「さいだー・ぶるーす」

あとそもそもなんで演劇とジャパニーズラップを対比するかという問題。
それはラッパーとは作家であり役者であり演出家であるという非常に希有な存在だからです。
作家として書きたいこと、自分ができるライミング、そして自分流HIP HOPの体現。
どんなに作家として優れていても、ライミング技術がなければ自分の歌詞をラップできません。
逆にどんなにライミングが上手くても歌詞が陳腐では相手にされません。
そしてトラックや作品の方向を自分で決め、自分で体現しなければいけません。
そこに一貫性がなく、行き当たりばったりで矛盾が起きれば「フェイク」と呼ばれる。
作家、役者、演出家、このどの要素が欠けても生き残れない。
ラッパーはひとり劇団みたいなものなのです。

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現代演劇暴論6「ZEEBRA=野田秀樹」

さぁどんどん自分でも何を書いているのかわからなくなってきました。

直輸入だった近代劇の言葉、しゃべり方、思想の三つの問題を口語によってクリアしたLBと現代口語演劇。
ではその他のラップ&演劇は滅亡してしまったのでしょうか。
いいえ。彼らは彼らで独自の進化を遂げ表現を向上させていきました。
それが「さんぴん世代」と「小劇場ブーム」です。

ECD主催によって行われたイベント「さんぴんキャンプ」。
その出演者達は歌詞をLBほど口語に引き寄せることはしませんでした。
しかし、不自然だった日本語のラップを日本人の生理に引き寄せ、さらに「詩」として昇華しようとしたのです。
それは新劇を少しずつ現代化していった小劇場の流れに重なります。
主な流れを作ったのはこの三人です。
つかこうへい=Dev Large(ブッダブランド)、野田秀樹=ZEEBRA、鴻上尚史=YOU THE ROCK★(雷家族)。

参考資料。
NIKE-CM Tim Duncan - ft . Dev Large

NIKE-CM Kevin Garnet - ft . Zeebra

NIKE-CM Jason Williams - ft . Twigy(YOU THE ROCK★ではないけど雷家族つながり)

とまあ少しずつ日本人が聞いても「カッコつけ」ができるようになっていくわけです。
そして段々と俗っぽくなっていくわけですね。(TWIGYはちょっと違いますが)
さらには極限まで日本人の生理に合わせることによってHIP HOPは「歌謡曲」化します。

ZEEBRA「Street Dreams」

もしくは「歌謡曲」のHIP HOP化に成功したとも言えるかもしれません。
つまり日本人の「情」の部分をラップで描くところまでやってきたということです。
野田秀樹が夢の遊民社からNODA MAPへ移行し、「スタイルのためのスタイル」から「物語のためのスタイル」へと以降したのと根底は同じです。
本質の大衆化はポジティブな発展だと私は考えます。
本質のない単なる大衆化は「セルアウト」です。
この流れは松尾スズキ、ケラリーノサンドロヴィッチ、DABO、DELI、マッカチン(ニトロ)、ラッパ我リヤ(走馬党)へと引き継がれていきます。
しかしそれぞれのやり方でHIP HOPを大衆化をしていく中、彼らは常に「ハーコー」と「セルアウト」の狭間で悩み続けることになります。

口語、セルアウト、ハーコー、この三つの中間を巧みなバランス感覚とテクニックで進み最も大衆に支持された流れがあります。
それが「後期FG」と「三谷幸喜(ウェルメイド)」です。

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現代演劇暴論5「SDP=青年団」

そして三つ目の問題「そんなこと言わねーよ」です。
「そんなこと言わねーよ」は突き詰めると「そんなこと思わねーよ」です。

SDP、キミドリ、かせきさいだぁ、脱線3、TOKYO NO.1 SOUL SET、ナオヒロック&スズキスムース。
彼らが所属したリトル・バード・ネイションは現代口語を使ってラップしました。
彼はあえて韻のしばりを放棄しました。
踏むときは踏むがそれは義務ではないと考えたのです。
だからこそ何を歌うかどう歌うかが難しくなってきます。
平田オリザが提唱した「現代口語演劇」=「静かな演劇」。
彼は不自然な日本語を極力廃し、話し言葉を使って演劇を立ち上げました。
会話の無意味さや不毛さを背負いながら作品を立ち上げようとする挑戦はまさにSDPのそれと同じ。歌詞や戯曲から「カッコつけ」の言葉を取り除くことで恥ずかしさから脱却しようとしたのです。

ここで最も重要なことは彼らの功績は「よりリアルに近いラップ・演劇を作った」ということではないことです。
まず「リアル」という言葉は大変、危険です。なぜなら万人共通のリアルというものは存在しないからです。何をリアルと思うかはそれぞれの感覚によります。だから「オレが真のリアルだ」論争が巻き起こるのです。HIP HOPでは「リアル」とほぼ同義語に「ストリート」、「アンダーグランド」、「ハーコー」などの言葉があり、ますます厄介になってきます。本来ならリアルだけどアンダーグランドじゃない、とか、ハーコーだけどリアルじゃない、とかが存在してもいいはずなんですが、「リアルでアンダーグランドでハーコー」のどれかが抜けると「フェイク」の烙印を押されてしまいます。
演劇も同じです。「リアル」だから「いい演劇」、「リアル」すぎるから「悪い演劇」の発想を捨てるべきです。語るべきは「豊か」か、「豊かじゃないか」です。

だからもう一度、LBと現代口語演劇の功績を考えます。
それは言葉の段階から現代日本人の生理に合わせることによって、今まで描けなかったものを描けるようになったことです。つまり現代の言葉を使うことによって近代の言葉では描けなかった「現代の何か」を描くことができるようになったのです。

参考資料。
スチャダラパー「サマージャム'95」

“今日も暑ーい1日になりそうです”
ほら言ってる わっ超あおられる
夏っつうと こうモーローと
してるうち翻弄されちゃうよどーも
なっ もうカーッとこられると
こっちも負けるかって気になるの
解ってんのに炎天下に
全然意味なく 家出たりしてね
そんで出た瞬間に 汗がダーッ
太陽ピカーッ 頭フラーッ
夏本番 海か?山か?
プールか? いや まずは本屋
で帰りにソバ ザルかせいろだ
それが正論 んふっ 入んないから
いっつも食ってんだけども
これが夏となると又 格別なのよ
で ふっと 外見ると子供まっ黒
プール帰りの アイス食ってんの
食ってないねーアイス 行ってないねープール
行ったねープール
みんなで徹夜あけ レンタカーで
情なかったねー海パンダサダサで
あれは笑ったなー 行きたいなー又
こんな曲でも流しながら

夏を歌った曲です。
どこかにある街のどこかにある通りの夏の風景が浮かんできます。
その「通り」は決して「ストリート」などと呼ばれる場所ではありません。
つまり従来の言葉ではきっと「ストリート」や「アンダーグランド」や「サグ」な夏しか描けなかったということです。現代口語ラップによってはじめてこの「夏」は描けたのです。
今まで描けなかったものを描けるようになる。
これはリアルかどうかはわかりませんが「豊か」なのは間違いありません。

もう現代口語演劇の功績については言うまでもないでしょう。
近代の言葉によって作られた登場人物達の「思考」は私達の感覚と次第に距離ができました。だからセリフに「そんなこと思わねーよ」とか「思っても口に出さねーよ」とか心でツッコミを入れてしまうのです。
現代の思考や人間を描くためには現代の話し言葉によるセリフが必要だったのです。
ちなみに青年団がスチャダラパーならMC BOSEが平田オリザでしょうか。
するとさしずめ岩松了はTWIGYで、宮沢章夫はECDですね。
宮沢、ECD、両氏のオーバーグランドからアンダーグランドへの変遷まで考えると意味深いです。

普段話している言葉を使って作品を作るとぱっと見なんにもすごくないように見えます。
普通の言葉を使おうとしているのですから普通に見えて当たり前です。
だからこそ何を語るかが重要になってきます。
あくまで「現代口語」でしか描けないもの、そして近代的でない分「感覚的」に私達に迫ってくるものそんな何かを描く必要があります。
LBや静かな演劇の生存率の低さがその難しさを語っているようです。

では次回はあくまでHIP HOPの思想はそのままに進化をした「さんぴん以降」と、同様に近代劇を徐々に現代風に進化させた「小劇場演劇」について語りたいと思います。

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現代演劇暴論4「なぜラップをするときにみんな中腰で手を振るのか」

今回は二つめ「そんなしゃべり方しねーよ」です。
まずは参考資料。嵐「A・RA・SHI」

ジャニーズでさえラップをするときは中腰で手を振ります。
なぜならそれが「ラップの流儀」だからです。
しかしそれは固定概念以外の何者でもありません。
それらは何かの理由があって生まれた「西洋人のカッコつけ」でした。
事実、カッコつけをしてる西洋人はカッコいいです。
ではなぜ日本人が同じようにカッコつけてもカッコよくならないのか。
それは根本的にその「カッコつけ」が日本人にあってないからです。
細かく言えば、生理・文化・思想にあってないからです。
だから人はそれらを見て恥ずかしいと思うのです。

演劇もまったく同じ構造です。
セリフを言う時は「大声で滑舌よく前を向いてお客に聞こえるように」と誰もが考えます。
それが「演劇の流儀」です。
しかしそれも固定概念でしかありません。
いわゆる「演技らしい演技」なんて少し昔に誰かが見た西洋人の見よう見まねです。
つまりそれにどんな正当な理由があったとしても所詮「西洋人のカッコつけ」なのです。
だから日本人に合わないのは当たり前の話なのです。
でもそれ以外に舞台上でカッコつける方法を知らない。
だからみな舞台に上がると西洋人のように大げさで大声で大振りになってしまう。
そしてそれを見た普通の感覚の人は恥ずかしいと思ってしまうのです。
つまり「そんなしゃべり方しねーよ」なのです。

この問題に二つの解決方法が提示されました。
1「西洋のカッコつけ方を日本人の生理にすり寄せていく」
→さんぴんキャンプ世代、小劇場演劇
2「言葉(歌詞、韻、戯曲)の段階から日本人の生理に合わせて作る」
→リトル・バード・ネイション、静かな演劇

そして、その折衷案をとったのがウェルメイドと後期FGクルーです。

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現代演劇暴論3「小山内薫=K DUB SHINE」

なぜ演劇を見ると恥ずかしくなるのか。その原因の9割は「役者のセリフ」にあります。
つまり「そんな奴いねーよ」です。
これは「そんな言葉でしゃべんねーよ」と「そんなしゃべり方しねーよ」と、「そもそも、そんなこと言わねーよ」の三つの問題が重なっています。
今回は「そんな言葉でしゃべんねーよ」について考えます。

モスクワで近代演劇の洗礼を受けた小山内薫は帰国後、日本近代演劇のパイオニアとなります。
伝統芸能しかなかった日本で「近代演劇」を語ることができたのは海外で本物に触れた人間だけでした。
なぜなら演劇に「お雇い外国人」は存在せず「外国人本人」に教えてもらうことはできなかったからです。
したがって演出は見よう見まね、戯曲は翻訳という形で始まります。
そして翻訳というシステムがセリフという「話し言葉」を「書き言葉」にしてしまいました。
これによって「口語」から離れた「演劇独自の言葉」が生まれます。
つまり「そんな言葉でしゃべんねーよ」です。
そして小山内薫は新劇にとって伝説的な劇場「築地小劇場」を作ります。

一方、アメリカでHIPHOPの洗礼を受けたK DUB SHINEはジャパニーズヒップホップのパイオニアとなります。
演歌しかなかった日本で「HIP HOP」を語ることができたのは海外で本物に触れた人間だけでした。
なぜならHIP HOPに「お雇い外国人」は存在せず「外国人本人」に教えてもらうことはできなかったからです。
したがって身振りは見よう見まね、歌詞は翻訳という形で始まります。
さらに「韻」の問題が発生します。英語の韻を日本語でどう表現するか、です。
しかしパイオニアK DUB SHINEは画期的な方法で日本語の韻を成立させました。
代表曲「日出ずる処」の一部を例に紹介しましょう。

日出ずる処/K DUB SHINE

時ははるか縄文の時代に訪問 伝えに降りてきた自然と共存
森羅万象に大変リスペクト 人と環境に関係見つけ
感謝の気持ち 全ての命 豊かな実り 太陽に祈り
愛する 深める親睦 つとめて品良く ふるまう民族
耕す 美しい 山を夕焼けが真っ赤に染め
午後の六時 空が告知 栄養バランスのとれた食事
和食 伝統的健康的 今じゃ 世界中でも現象的
毎年夏に みこしもかつぎ 日本の かなり熱い
深い美意識 豪華な儀式 鮮やかな四季 心は ………

赤いところが韻を踏んでいるところです。確かに日本語で大量の韻を踏んでいます。
そうK DUBは同じ音を持つ単語をつなげ文章を作ることで「日本語の韻」を実現させたのです。
しかし…えーと…正直、えーと、その、K DUBさん…何言ってんすか…。そしてダサイ…。でもそんなK DUBが大好きなんだ。
しかしながらどう見ても日本語としてはイビツであり、「そんな言葉でしゃべんねーよ」なのです
とかなんとか言っているうちにK DUB SHINEはHIP HOPにとって伝説的なバンド「キングギドラ」を作ります。

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